3月 23, 2012

3月 23, 2012
「今和次郎 採集講義」展@汐留パナソニックミュージアム

 今和次郎は、関東大震災以後、復興する東京の人々の服装や風俗を採集した建築家である。 人類学や民俗学で用いられる、対象の細部を事細かに記録する採取する「悉皆法」を先鋭化させ、記録するという行動そのものを表現に高めた。彼の打ち立てた「考現学」は、赤瀬川原平の路上観察学会、大田垣靖子のエッセイの源流である。今回の展示は初の回顧展で、工学院大学図書館のコレクションの中からスケッチやデッサン、図面がずらりと並べられた。

 展示は、早稲田大学の建築科卒業後にとりくまれた地方の民家調査から始まる。柳田国男の「白茅会」に参加した今は、屋根瓦の配置、雨樋、農具をしまう端材で作られた容器など、農家の生活のすみずみを執念深くサンプリングしている。 家屋に住まう人々の生活のサイクルと時間・空間の管理の仕方までが図解され、冷静なストーカーといった印象を受ける。スケッチの一点一点に無駄なく、情報が最小限にとどめられており、建築家、一調査員としての職人魂を感じさせる。「白茅」は、茅葺き屋根が年月を経て白く変化する事から名付けられたそうだが、 白茅会の仕事にはその名前通り、年月とともに定着する生活そのものへの尊敬の念がある。

 今は、関東大震災を契機に都市に建てられたバラック小屋に注目した。前衛芸術集団「アクション」のメンバーとともに設立したバラック装飾社は、バラック小屋の店舗をペンキで装飾する。記録写真を見ると、簡素な食堂や書店の壁はダダイズムやロシア構成主義を思わせる模様が施され、思いのほか派手だ。震災による破壊を経て、急場をしのいで作られたバラック小屋は生活に必要な最小限の機能を備えたものであり、そこに装飾を施すという行動は、一見して無駄なようだし、現に表層の装飾は意味がないと批判を受けた。しかし、今はそれを否定する。生活文化は生活を営む人々が快適に過ごすことができてこそ出来上がるものであり、バラック装飾も農家の人々が家屋に施す工夫と同じように価値を持つ。民家の調査時代から一貫する暮らしの営みを見つめる姿勢は崩壊以後の都市にも生かされたのではないだろうか。

 「カフェー服装採集」「茶碗の割れ方採集」「日比谷公園の自殺者採集」など、都市の文化採集は、昭和初期のものであっても時代を感じさせない。「新時代の生活方向 生活マヂノ線を防備しませう 娘」に書いてあることは、自分の生活態度を見透かされているようだ。当時催された展覧会の再現コーナーもあり、観客が再現された会場内でスケッチを眺める様子は、今の生きていた時代にタイムスリップしたようだ。いろいろなものを俯瞰する視線は冷静だけれど、そのひとつひとつに愛着を持って取り組んでいるので、眺めていて飽きない。

3月 21, 2012
花森安治 くらしとデザイン展 島根県立美術館(2)

 島根県立美術館で開催された「花森安治 くらしとデザイン」展は、旧制松江高校時代から暮しの手帖の編集者、装釘家としての仕事を網羅した展覧会であった。広い会場に、松江高時代に手がけた校内報や、学生証、帝国大学時代に作った新聞などが展示される。また、衣装研究所設立以後のスタイルブック、暮しの手帖の表紙画などが天井に飾られ、編集長としての一面だけでなく、表現者としての側面も垣間見せる。スタイルブックの創刊号の版下が展示されていたが、一つ一つ手で書かれていて、色指定や筆致が非常に細やかで、丁寧な仕事をしたひとだ、ということがわかる。表紙画の原画が壁一面にずらりと並んでおり、デザインでも静物画としても優れているようだ。梅原龍三郎や安井曾太郎、熊谷守一、古賀春江、に塗り絵の作成を依頼していたり、当時の美術界とも交流があったに違いない。欧米に誰か影響を受けたデザイナーはいるのだろうか。

隅に設置された、「火事をテストする」というコーナーが面白い。暮らしの手帖の名物とも云える商品テストの一貫として、ひたすら、一つの家屋が燃えるまでをテストした際の映像が流れているが、その周囲に張り巡らされた、扇風機、ベビーカーのテストの記録写真もなかなかシュールだ。ゴードンマッタークラークの、家がまっぷたつに分かれてしまう映像作品を思い起こさせるが、これも、適切な消火はどうあるべきか、を考える為の実験なのだから笑っては行けない。扇風機の風圧を計るために同心円上に立つ社員は、こういってはあれだが、滑稽だし、前衛舞踏のようにも見える。暮しの手帖の仕事風景は映像資料で2つほど展示されているが、やり方にこだわらず、しかし目的をやり遂げる為の、最善の方法を探し出し、実践するという姿勢が、このちょっとばかみたいに見える社員総出の誌面づくりに現れていることがよくわかった。

それから私がとくに印象に残ったのは、彼の書いたレタリングだ。彼の情報処理能力の優れた部分は商品テストにも明らかだが、そのバランス感覚のよさは文字に一番あらわれていると思う。彼の字は整っている訳ではないが、美しい。考えながらことばをえらぶその課程があらわれている気がする。文字と文字の間隔や、大きさの調整は、書く事に夢中になっていては次第に崩れていくものであって、一歩心の距離を置いてその文字全体を俯瞰しなければどうコントロールすれば良いのか分からないものだ。しかし、書きながら、その書かれた文字をよむことは、なかなか出来ない。鏡に映った自分の姿を、美化、あばたやたるみを見なかったことにして、やり過ごしながらも本当の所で見なかった事にしているのと同じだ。そうしたスタンスは、文字の見た目だけでなく、内容にも反映される。勢いよく書けば何でも描けてしまう。思ってもいない大きな事だって筆の勢いを借りれば言えてしまうかも知れない。けれども、本当の賢さは、全体を見つめ、欠陥を見つめ、そして少しずつ修正していくことであり、それは暮らしのスタイルについても同じ事なのだろう。大義名分を唱えて日本が戦争を繰り広げた時代に「欲しがりません 勝つまでは」という言葉を残した花森の姿勢を見習いたいと思った。


3月 21, 2012

3月 21, 2012
花森安治 くらしとデザイン展 島根県立美術館(1)

ものやことを消費するとき、それが肥料となって自分の生活を作り上げるイメージを持ちたいと常々思う。子供のときから使って、ほつれてる手提げとか、襟の所がくたくたになったセーターとか、実際それが実践できているものは買ってどうこうしたものでない(そしてモノも綺麗じゃない)場合が多いのだけれど、よくいう「手になじむ」とかいう感覚には憧れ、これからあらたに購入するものもそんな存在になってほしい、と思う。しかし華やかな刺激が現実を一時的に忘れさせ、逃れさせてくれるイメージもまた魅力的で、安物の洋服に起こりがちな、ぱっと見てこれだ、と選んだものも3日経てば飽きる、ということはしばしばおこる。意志が弱く、一貫した選択が出来ないということは悩みの種だ。似合うものは何なのか知っていても、ついつい足を踏み外したくなってしまうという様な経験は、だれにだってある。物を選ぶことは、この2つの自分を揺れ動きながら、やはりどちらかを選ぶこと。消費行動は選択の連続で失敗も多いけれど、そうした選択が連なると、その踏み外しも含めて核となる生活のスタイルが出来上がっていくのだろう。

 核となる生活スタイルを作るのは難しいという事は、雑誌を見ればよくわかる。雑誌を見ていると、流行を追って、目指すべき生活のスタイルが季節代わり、月代わり毎にめまぐるしく変わるが、ブランド名や~風といったレッテルが誌面を踊るのを見れば、本当はみな自分のスタイルなど持っていないことが分かる。しかしそれに悩む暇さえ与えないほどに「あなたに」おあつらえ向きのスタイルは用意されていて、「気取らない、地道な方法」ですら、マニュアル化してしまっている。「町家を改装したカフェ」も、「綿の白いシャツ」も、なにかの記号みたいになってしまっているのだから、なんだか気が滅入る。

 それでも、ほんとうに、一貫したスタイルを実践している人物や雑誌の存在は、消費者にとって心強い。刺激だらけの社会の中で、余計なものにまどわされないスタイルを作る上で、ガイドラインがあるというのは少し矛盾しているけれど、「やがて こころの底ふかくに沈んで いつか あなたの暮らし方を変えてしまう そんなふうな これは あなたの手帖です」と書かれた暮らしの手帖はそうしたガイドライン的な存在だったのではないかと考える。編集長である花森安治は一朝一夕に作られるものではない自らの確固たるライフスタイルを随筆や商品テストを通して示し、「暮しの手帖」は、消費者それぞれがそれを打ち立てることができる可能性を示したのだから。